話しかけないでください。オタクのことが嫌いです

オタクの嫌いなところを列挙したり解説します。ときにはオタク達の矛盾を指摘します。話しかけてもいいですよ。でも。オタクのことが嫌いです。

委員長的・PTA的オタクたち

 また更新がかなり滞っていました。たぶん今後もこういうペースになると思います。

 前回「ネタが尽きたとかではなく」とか書いてたような気がしますが、尽きてました、ネタ。すみません。

 

 

まなざし問題についての委員長

 ネタというか、邪悪な気持ちが尽きてたんです。このブログは、タイトルからもわかるとおり若干邪悪な気持ちを糧に書いてたようなところがありました。もとは邪悪な気持ちがどんどん湧いてくる2ちゃんねるをやめるために始めたブログですが、いまではすっかり治療された感じです。

 ただ、さいきんちょっとだけ邪悪な気持ちになることがあったので、今回はそれについて書いてみたいと思います。

 

 まなざし問題ってありますよね。碧志摩メグとか、最近だと『女子高生探偵シャーロット・ホームズ』という海外の小説の日本版について似たようなことが起きていたり。

 こうした問題に対してオタク達は「自分の個人的な不快感を、社会正義や他人・原作者の不快感に置き換えて押し通そうとしている」などといったロジックで反論するわけです。

  なるほどたしかにそういうことは往々にしてありそうです。

 太宰メソッドなども該当しそうですが、社会正義や他者、原作者の不快感を装って自分の不快感を押し通そうとするやり方を、委員長的あるいはPTA的方法と呼んでみましょう。オタク達はつねにこうした委員長的・PTA的方法と闘ってきたわけです。

  とはいえしかし、こうした方法は本当にオタク批判側の専売特許でしょうか?

 

 

ベッキー問題についての委員長

 僕が嫌いなのは2ちゃんねる的な、批判が好きで好きで仕方ないというタイプのオタクです。

 むろん、オタクすべてがそうであるわけではない。とはいえなかなか無視できない数の2ちゃんねる的なオタクがいます。

 僕が彼らを嫌うのは、彼らがアウトローだからではありません。むしろその逆、あのせせっこましい狭量さ、窮屈でつまらない旧弊的な規範しか認められない平凡さが本気でいやなのです。言ってしまえば、彼らは委員長でありPTAであり「いい子ちゃん」でしかない。

 ベッキーに対する批判などを見てもわかる。彼らが「知るか、他人の不倫とか、本人で解決してろ」や「不倫くらい自由じゃねぇの? 気に入らないなら本人が仕返せばいいんじゃねぇの?」と思えるほどアウトローならどれほどよかったか。実際には彼らは、いかにも親切に「被害者のためを思ってますよ」と、いい子ちゃんを装っておせっかいな批判を繰り返すしかないわけです。

 彼らは「人それぞれ」や「いやなら見るな」といった言葉が嫌いです。何故か。問題を個人的な好悪や不快感の問題に還元されるのを嫌うからです。個人的な感情なら「あっそ」で終わってしまう。だからこそ、社会正義や他者、原作者の不快感を装わざるをえない。委員長的・PTA的方法はむしろ、批判の一般的な形式と言っても言い過ぎではないかもしれません。だとすれば、批判が大好きな彼らはやはり典型的な委員長でありPTAでありいい子ちゃんであるわけです。

 

 

セカイ系的欲求

 要するに「まなざし村」とその批判対象でありかつ反論者であるオタク達は、結局同じようなことをやってる同じ穴の狢に過ぎないわけです。

 そもそも原作者を憑依させてその不快感を代弁するふりをしつつ自分の不快感を押し通すやり方は、「原作レイプ」という言葉が大好きなオタク達の専売特許で、まなざし側が真似したといってもいい気がします。

 ラディカルな(まなざし村的な)フェミニズム2ちゃんねる的なオタクたちは、互いの方法を学び合ってることもあり、方法の面では一致している。なにが違うかと言えば、なにが好きでなにを嫌うかという、個人的な好悪、つまり党派性が違うだけの話。なんだと思います。

 彼ら彼女らは自分の好悪や不快感を、単なる個人的なものに留めておくことができない。他者を憑依させたり社会正義というもっと大きな問題に仮託したりせずにはいられない。こうした欲求の在り方を「セカイ系的欲求」と呼んでみたい。

 もしかしたら間違った解釈なのかもしれませんが、最近いわゆる「セカイ系」について思うのは、それは「自分とセカイが一致していて欲しい」という欲求の表現形式の一つなのかな、ということです。

 小さい話で言えば、自分が悲しいときには雨が降っていて欲しい、と思うこと。あるいは、自分にとって危機的な恋愛は、セカイにとっても危機的であってほしい、と思うこと。

 まぁ古くはセカイと自己が完全に一致していた幼児の頃への回帰でしょう。*1

 しかし実際には、セカイと自己は一致しません。自分がいいと思うものが世の中では評価されず、世の中で評価されているものが自分にはいいと思えない。そういうことは往々にしてあります。セカイは自分でないのだから、当たり前です。それはそもそも変えられるようなものではないし、自分と完全一致したセカイは心地よいかもしれませんが、同時にそれはすごく気持ち悪いものです。他者がないのだから。

 むろん、部分的には変えられるでしょう。とくに世間的に評価されていないが自分はいいと思うものに対する見方を、批評によって世の中に広めるのはかなり有益なことです。一方で自分がつまらないと思うものを、それまで楽しめていた世の中にまで楽しめなくすることに、なにか意味はあるのでしょうか? 僕にはわからないし、大抵そういう試みは失敗します。それは往々にして「セカイと自己が一致して欲しい」セカイ系的欲求からくるわがままに過ぎないからです。

 ここで唐突に確率の話をしてみましょう。袋の中にボールがあり、その中に白いボールがあるかもしれない。袋の中からボールを引いては戻します。ここで赤いボールを「つまらない」、白いボールを「面白い」とします。一度ボールを引いてみると赤だった。このとき袋の中に白いボールがない可能性は依然としてあります。つぎに引いてみると白だった。これで袋の中に白いボールがない可能性は消えます。そのあとどれだけ「つまらない」赤のボールを引こうが、袋の中に「面白い」白いボールがある事実は覆せません。試行を繰り返せば、大数の法則により白いボールの出現頻度は真の確率に近付きますが、一度白いボールが出る限り0になることはない。

 面白く見られる可能性のあるものを、わざわざつまらなくみることに、すくなくとも僕は意味を見出せません。(むろん、かといって頑張って面白く見る必要も必ずしもありませんが)

 ただ、「自分が嫌いなものはセカイも嫌って欲しい」というセカイ系的欲求の持ち主なら、そこに意味は見出せずとも、ついついやってしまうことはあるかもしれません。

 そしてそれは、ハッキリ言ってくだらないと思います。僕は。

 

 

 商品になること

  さて、ここからはすこし話の色を変えます。

 そしてここからがこの記事の気持ち悪くて「邪悪な気持ち」の部分です。

 悪魔合体です。

 一方にベッキー批判を置く。すこし古いですがAKBメンバーの恋愛スキャンダルでもいい。いずれにしろ「他人が口出しするようなことではない」ことであり、「有名税」や「芸能人=商品なのだから、そうした(おせっかいな)批判も甘んじて受ける必要がある」と正当化されがちな批判です。

 もう一方に「萌え」への批判を置く。深夜アニメのエロシーンや残虐シーンへのPTA的な批判でもいいし碧志摩メグ批判でもいい、あるいは「犯罪者が普段見ていたアニメ」の報道でもいい。

 このふたつを合体させてみたとき、見えてくる問いは「萌え絵は商品か?」ということです。

 YES。ですよね。

 萌え絵は商品なんですよ、アニメであれなんであれ、アイドルや芸能人と同じように。だったら。芸能人と同じような理不尽な叩き方されても文句言えませんよね?

 有名税

 もちろん、本来のターゲットでない視聴者からの批判に晒されることもありえます。ベッキーやAKBの批判者は必ずしもファンではなかったでしょう。同じように、深夜アニメなど見ない層から不快感が噴出することもある。

 残された選択肢は「「商品」への理不尽な叩きを許容する/しない」です。もちろん「商品」のなかには萌え絵もベッキー達芸能人も入っている。ベッキーを批判し続ける限り萌えへのまなざし的な批判もまた許容せざるを得ない。また萌えへのまなざし的な批判を理不尽だと批判する限り、ベッキー達芸能人への「おせっかい」な批判もやめざるをえない。

 

 僕は「まなざし村」的な過度のポリティカルコレクトネスの侵攻には危惧を覚えますが、一方でほの暗い喜びもまた覚えます。なにしろ、これによってようやくオタク達は「~な批判はやめるべき」という理屈を考える必要に迫られたのですから。このとき、とある批判が理不尽である条件を、彼らが普段行うあらゆる批判に適用すれば、どういう結果が出るでしょう?

 それを想像するとき、なんかちょっと邪悪だなぁ、よくないなぁ、と思いつつも、うくく、と笑えてくるのを止められないのです。

  ほんとよくないですよね、こういうの。

 

 

 

 

 

*1:鏡像段階の前、と言ってみたいが、間違ってたら怖い……